ソクラテスの「無知の知」

みなさま、こんばんは。

今まさに話題と議論を呼んでいる「多様性」の世界です。

白村江の戦い以前は「日本」とは誰も呼んでいませんでした。

当時の人たちは「縄文」などという言葉すら知りませんでした。
あらゆる民族、種族が付かず離れず、干渉せず、
そしてまつろうことなく、まつろわせることもなく、
それぞれの生活を尊重しながら、
平和に、平穏に暮らしていました。

私たちは「平和」という言葉を何気なく用いてしまいますが、
縄文時代には、そもそも戦乱が存在しなかったわけですから、
縄文の人たちの意識には「平和」という概念すら存在しなかったと思われます。

今、私たちの間での「平和」の定義とは、
「戦争と戦争の間の束の間の休憩時間」を指しますね。

縄文時代は1万6000年もの間、戦争とは無縁だったわけですから、
そもそも「平和」というものを知らなかったわけです。

また、所有という概念もありませんでした。

「正義のため」「この国のため」「日本を変えるため」と言っている人こそが、
これからの時代では、そんな「多様性」と向き合わなければならない時が来ます。
ひたすら隠れている私が、ホンのちょっと水面から顔を出しただけで、
猛バッシングされてしまうのです。

異物は排除せよ!
異質なものは許さない!
知らない人は嫌いな人だ!
すべての人を「ひとつ」にまとめ均質化せよ!

真面目がゆえに正義心を高め、良かれと思ってやられているのでしょう。
しかし、その正義心というものが、多様性を否定してしまっているということに、
彼らはなかなか気づくことができないでいます。

一番大事なこととは、自分がまだ何も知らないのだということに気づくことです。
これがソクラテスが提唱した「無知の知」です。

自分がまだ何も知らないということを知る。

こんな単純なことなのに、ソクラテス以来2400年経った今でも誰もこれができない。
そして、ソクラテスは「無知の知」を提唱しただけで毒殺されてしまいました。

この世で最大の賢者とは、己の無知を知っている人、気づいた人です。

己の無知を知覚することはとても難しいことであるし、恥ずかしいことだと思う人も多いでしょう。

プライド、自尊心がそれを阻害するのです。

この世のあらましや構造、そして未来の行く末を純粋に見通したいのであれば、
誰よりも、素直に純粋に、謙虚に、己の無知を常に意識的に痛感していくことです。

人はえてして、己の手柄を誇りたくなるものです。
自らが会得してきた知識や経験を誇示したくなるものです。
誰かに教えてやりたいと思いたくなるものです。
我こそは師であり、先生であり、偉大なる人物であると言い聞かせたくなるものです。
しかし、もしそう思ったのであれば、それはあなたが「世界一の無知」であるということなのです。

本物の賢者は、己の無知を知るのです。
学べば学ぶほど、己の無力さを痛感し、謙虚になり、奥ゆかしくなります。
賢者であればあるほど、それはまるで赤子のように若返り、目が透き通り、
これまで与り知れなかった知見に触れるたびに、目を丸くしてそこから何かを学ぼうとします。

「私はもうすべてを知った」と思った瞬間、成長がストップします。

どれだけ「知った」と思っても、じつはまだ入り口にすら到達していないのだ、
という意識を常に持ち続けられるかが重要です。
そういう「無知の知」を常に意識している人物は、じつに稀です。
じつに単純で、簡素なことなのに、誰もできない。
ここに、すべての謎を解くための根源的な秘密が隠されているのではないかと
私はいつも思っています。

投稿者: 澤野大樹

情報誌INTUITION の執筆者です。 2018年で創刊22周年となりました。