大樹界 ご案内文章

じつは多次元世界の中に三次元世界は包含されているのだから私たちが意識するこの三次元現実物質世界とはじつは多次元世界の一環なわけです。

「ひとり」と「ひとつ」は断絶しておらずじつは「ひとつ」の中に「ひとり」が包含されていたのです。

最小のものと最大のものがフラクタルに均衡を量りながら同時に等価にて共存していたのです。

その均衡と多次元と三次元の「呼吸」(行き来)の支点となるのが次元変換触媒装置「鏡」(かがみ=蛇身=かがめ=籠目=ミラー=666=ミロク)です。

「鏡」は滞ってしまうと直ちにそれは「鏡」ではなく「壁」(The Wall)として機能してしまう。

壁に閉ざされた「ひとり」はただのひとりも味方をしてくれる存在を見出すことができず、空虚な孤立に苛まれる。

これが「寂しさ」の淵源となります。

「寂しさ」を身に纏った人々は「壁」を構成するレンガのひとつとして互いに身を寄せ合い物理的な固着によってその孤立感を埋めようとする。

そしてその「空虚で固定された壁」こそが「本物のひとつ」だと思い込まされ、壁を支えることこそが人生の目的であると盲信したまま人生を送り、または終える。

この世の為政者、いや支配者は人類に絶え間ない寂しさを抱かせ続けることによって世界経済を廻しています。

恐怖と欠乏と不安は莫大なる経済効果を産むからです。

人類に満足感なぞ味わわせてはならないと彼らは考えていることでしょう。

「鏡」を曇らせ、多次元世界を遮断することは経済的な意味と霊的な意味の両方を持つ。

経済的な意味が第一と思われるがじつは副次的であり「霊的な意味」が第一義となる。

まずは霊的な支配がありそこに経済的なものが付随するという順序である。

人類は物心がついた時にはすでに統治者からかような思想統制が為されていました。

「鏡」を失った人々はこの三次元マテリアル世界の中のみでの生活を余儀なくされました。

多次元世界にある無限の富を投影させることも許されず、人々はただ隣の他人が持つわずかな富をしかも奪い合わなければならなくなったのです。

いかに他者から上手いこと富を掠め取れるかどうかがその世界においての頭の良さを量る尺度となった。

したがって、現在のこの世においては人の力量がおしなべて世界の恒久の安寧のために用いられることは皆無となった。

しかし人々の知能指数が格段に低下させられ定着したわけではない。

知能の大半を争いに用いられていただけであり、その演算能力は些かも衰えを知らない。

ならばそんな本来の知性を毀損なく保持しているのなら、その本来の用いられ方があったことにだって早晩気づくにちがいない。

自分が巨大な壁を構成するひとつのただのレンガだったことに気づいた瞬間にその壁は崩壊する。

そのような壁を構成するレンガのことを「さざれ石」という。

「巌」(いわお)という「壁」に埋没させられてきた私たち一人ひとりがさざれ石へと戻り、しかも「私はそもそも石などではない」と覚醒し封印された本能と生への希求が呼び覚まされた時、世界は変わる。

世界で起こる本物の革命とは、デモでも国民投票でもない。

私たち一人ひとりが宇宙そのものをも自在に左右し得る創造主の実体であることを発見することだ。

ホンのわずかな一瞬のスイッチで人の心は一転する。

たったひとつの真理が全人生、全世界、全宇宙を変えるのだ。

ならば私たちにまず必要なのはそんな「未知なる真理」だというのか?

いや私たちに今、もっとも必要なこととは「全人生を変え得る真理とやらがどうもあるらしい」ということにまず気づくことだ。

『大樹界』とはそれを解決する帯域――“界”――だ。

総踊り

『第189号』の3ページ目に筆者はこう書きました。
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>巨大な時代の変わり目にはみんな狂乱踊りをする
>問題なのは、「そこらじゅうの子供から年寄りまでみんなが踊り出し」たら
>ヤバイということだ。
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阿波踊りの行く先など私の知ったことではないし、
興味もありませんし、どうでもいいことです。
重要なのは、ここで「総踊り」というキーワードが、
報道を通じて世間を賑わせているということです。
国民全員が具体的に物理的に肉体的に踊りだすのではなかった。
これまでの日本史上「総踊り」という言葉がこれだけ表に出たことがあったでしょうか。

ソクラテスの「無知の知」

みなさま、こんばんは。

今まさに話題と議論を呼んでいる「多様性」の世界です。

白村江の戦い以前は「日本」とは誰も呼んでいませんでした。

当時の人たちは「縄文」などという言葉すら知りませんでした。
あらゆる民族、種族が付かず離れず、干渉せず、
そしてまつろうことなく、まつろわせることもなく、
それぞれの生活を尊重しながら、
平和に、平穏に暮らしていました。

私たちは「平和」という言葉を何気なく用いてしまいますが、
縄文時代には、そもそも戦乱が存在しなかったわけですから、
縄文の人たちの意識には「平和」という概念すら存在しなかったと思われます。

今、私たちの間での「平和」の定義とは、
「戦争と戦争の間の束の間の休憩時間」を指しますね。

縄文時代は1万6000年もの間、戦争とは無縁だったわけですから、
そもそも「平和」というものを知らなかったわけです。

また、所有という概念もありませんでした。

「正義のため」「この国のため」「日本を変えるため」と言っている人こそが、
これからの時代では、そんな「多様性」と向き合わなければならない時が来ます。
ひたすら隠れている私が、ホンのちょっと水面から顔を出しただけで、
猛バッシングされてしまうのです。

異物は排除せよ!
異質なものは許さない!
知らない人は嫌いな人だ!
すべての人を「ひとつ」にまとめ均質化せよ!

真面目がゆえに正義心を高め、良かれと思ってやられているのでしょう。
しかし、その正義心というものが、多様性を否定してしまっているということに、
彼らはなかなか気づくことができないでいます。

一番大事なこととは、自分がまだ何も知らないのだということに気づくことです。
これがソクラテスが提唱した「無知の知」です。

自分がまだ何も知らないということを知る。

こんな単純なことなのに、ソクラテス以来2400年経った今でも誰もこれができない。
そして、ソクラテスは「無知の知」を提唱しただけで毒殺されてしまいました。

この世で最大の賢者とは、己の無知を知っている人、気づいた人です。

己の無知を知覚することはとても難しいことであるし、恥ずかしいことだと思う人も多いでしょう。

プライド、自尊心がそれを阻害するのです。

この世のあらましや構造、そして未来の行く末を純粋に見通したいのであれば、
誰よりも、素直に純粋に、謙虚に、己の無知を常に意識的に痛感していくことです。

人はえてして、己の手柄を誇りたくなるものです。
自らが会得してきた知識や経験を誇示したくなるものです。
誰かに教えてやりたいと思いたくなるものです。
我こそは師であり、先生であり、偉大なる人物であると言い聞かせたくなるものです。
しかし、もしそう思ったのであれば、それはあなたが「世界一の無知」であるということなのです。

本物の賢者は、己の無知を知るのです。
学べば学ぶほど、己の無力さを痛感し、謙虚になり、奥ゆかしくなります。
賢者であればあるほど、それはまるで赤子のように若返り、目が透き通り、
これまで与り知れなかった知見に触れるたびに、目を丸くしてそこから何かを学ぼうとします。

「私はもうすべてを知った」と思った瞬間、成長がストップします。

どれだけ「知った」と思っても、じつはまだ入り口にすら到達していないのだ、
という意識を常に持ち続けられるかが重要です。
そういう「無知の知」を常に意識している人物は、じつに稀です。
じつに単純で、簡素なことなのに、誰もできない。
ここに、すべての謎を解くための根源的な秘密が隠されているのではないかと
私はいつも思っています。